メディア論の最近のブログ記事

いま、コンテンツの寿命がとても短くなる傾向にあると感じています。

コンテンツの認知経路としてソーシャルメディアが占める割合は高まっています。Webページに限らず、動画やスライド、PDFファイルなど、インターネット上でアクセスできるコンテンツは、FacebookやTwitterで共有されることでその認知が拡散するケースが増えています。さらにモバイル端末を使っていつでもリアルタイムに共有されるケースも多いため、コンテンツが拡散する速度はますますアップしています。

ただコンテンツ共有の拡散速度がアップするのに比例して、コンテンツが消費される速度もまたはやくなっています。こうしたブログの記事などはあっという間に消費されてしまいます。もちろん、後々検索されて再発見される機会もあるのですが、話題になるのはソーシャルメディア上で共有される一瞬のあいだです。そんな風に、コンテンツは以前に比べて、はるかにその寿命が短くなってしまっています。

テクストと書物は必ずしもイコールではありません。

電子書籍云々を持ち出さなくとも、すでに十分すぎるほどインターネットに親しんでいる私たちにとって、それは自明のことであるはずです。日々接する多くのWebページのコンテンツ、TwitterやFacebookなどの断片化された言葉、あるいは、PDFファイル形式のドキュメントやSlideshareで共有されるプレゼンテーションなど、テクストを載せるメディアがもはや印刷された紙の書物だけではないことを知っています。

ただ、そんな私たちでも、印刷術の発明によって活字本が生まれる以前の中世までのヨーロッパにおいては建築もまたテクストを載せるメディアとして認識され利用されていたと知れば、驚く人のほうが多いのではないでしょうか。

司教補佐はしばらく黙ってその巨大な建物をながめていたが、やがて溜息をひとつつくと、右手を、テーブルにひろげてあった書物のほうへ伸ばし、左手を、ノートル=ダム大聖堂のほうへ差し出して、悲しげな目を書物から建物へ移しながら言った。

「これがあれを滅ぼすだろう。書物が建物を」

これはヴィクトル・ユゴーの『ノートル=ダム・ド・パリ』のなかの一節ですが、ユゴーはこのシーンで、登場人物であるパリのノートルダム大聖堂の司教補佐クロード・フロロに、印刷技術という新しいテクノロジーによって生まれた活字本という新しい知のメディアがそれ以前の知のメディアであった「石の書物」としての建築の意義が変化していく様を嘆かせるシーンを描くことで、紙の書籍以前の建築というメディアの存在を明らかにしています。

活字本が歴史に登場する以前、もちろん紙の書籍としては写本も存在しました。ただし、それは現在の本とは比較にならないほど貴重なもので、気軽に所有したり持ち運んだりできるものではありませんでした。その点では写本というメディア形態は、建築というメディアとそれほど変わらなかったのです。むしろ、一度に複数の人が利用できるという面からみれば、写本よりもノートルダム大聖堂のような建築のほうに優位性があったとさえいえるはずです。

さて、昨日は、自分たちの課題を自分たちで見つけて解決していくサステナブルな場づくりを支援する「参加のデザイン」を標榜する「Think Social -Experience Design Agent-」をスタートさせていただきましたが、皆さん、Facebookページに「いいね!」していただけましたでしょうか?

まだの方、ぜひ以下より「いいね!」していただいたあと、先を読み進めてください(笑)。

そんな「参加のデザイン」ともすこし離れたところでつながっている話だと思いますが、今回は、変わる読書体験と「参加のデザイン」の関係について書いてみようと思います。