逆パノプティコンから寄合方式へ

| コメント(0) | トラックバック(0)
このエントリーをはてなブックマークに追加 

民俗学者の故・宮本常一さんの代表作『忘れられた日本人』のなかの印象的なエピソードの1つに、対馬の北端にある伊奈の村で興味深い古文書を出会った著者が「この古文書をしばらく拝借ねがいまいか」と頼んだところ、貸してよいかどうかを村人たちが寄合で延々と話し合いはじめたというものがあります。この村では、とにかく何か取り決めを行なう場合には、寄合の場でみんなの納得のいくまで昼夜問わず何日でも話し合うのだといい、著者はその延々と話し合いを続ける村人の情景が「眼の底にしみついた」と書いています。

こうした寄合方式が行なわれていたのは、伊奈の村だけに限らず、対馬の別の村で古文書を見たいとお願いした際にも「総代会」という寄合の場で可否が決められることになったそうです。
何かしら取り決める必要がある場合は、寄合方式の会合を開き、そこで全員が納得するまで話し合う全会一致の方式がとられていた地域が西日本の村には多かったと述べています。しかも、下の引用にもあるとおり、会合の場においては身分の違いもなく互角の発言が許されていたというのが興味をひきます。

日本中の村がこのようであったとはいわぬ。がすくなくも京都、大阪から西の村々には、こうした村寄りあいが古くからおこなわれて来ており、そういう会合では郷土も百姓も区別はなかったようである。領主-藩士-百姓という系列の中へおかれると、百姓の身分は低いものになるが、村落共同体の一員ということになると発言は互角であったようである。

宮本常一『忘れられた日本人』

村の経済を司る裕福な郷土も、貧しい百姓も区別なく一堂に会して、互角な発言を通じて、みんなが納得するまで話し合う寄合方式。宮本常一さんをして「眼の底にしみついた」と言わせたその情景は、どこか現在のソーシャルメディアが浸透したコミュニケーション環境に似ていないでしょうか?

逆パノプティコン社会

ソーシャルメディアの活用に二の足をふむ企業の多くから共通して聞かれる言葉の1つに「ネガティブなコメントや炎上のリスクがある」といったものがあります。すでに5年以上も前に騒がれたWeb2.0の頃から変わらず、問題視されることなのですが、それがソーシャルメディアを活用しない理由といえるかというと疑問があります。
というのも、実際には企業の側がソーシャルメディアを活用するかどうかに関わらず、ネガティブなコメントがソーシャルメディア上で生じるのは避けられませんし、炎上の対象になるものもソーシャルメディア上での振る舞いだけではなく、むしろ、それ以外の企業活動である場合のほうが多いでしょう。
つまり、ネガティブコメントや炎上のリスクの問題は、企業側がソーシャルメディアを活用するかどうかではなく、ユーザー側が企業と互角に発言できる方法としてソーシャルメディアを手に入れたことにあるということです。ユーザーがソーシャルメディアとモバイルを使って、いつでもどこでもリアルタイムに、必要があれば写真や動画を証拠として添付する形で、企業に対して「もの申す」ことが可能になっている状況は、企業側から消費者側への一方通行なコミュニケーションが幻想でしかないことを認めざるをえない状況になったと言えるでしょう。

例えば、『逆パノプティコン社会の到来』という本で著者のジョン・キムさんは、こうした状況を「逆パノプティコン」と称した上で次のように書いています。

政府や大企業をはじめとする既存の権威は、情報の占有・統制を通じて、その権威を構築・維持してきた。だが、ウィキリークスやフェイスブックが情報の透明化を究極まで進めることによって、既存の権威は崩壊し、新しい権威体制が再構築されていく。その可能性が示されたのである。

ジョン・キム『逆パノプティコン社会の到来』

パノプティコンは、ジェレミー・ベンサムが提案した全展望監視システムをもつ刑務所や学校、病院などの施設の構想のことで、その後、ミシェル・フーコーが『監獄の誕生』という著書のなかで転用して、管理、統制された社会システムの比喩として用いたことから知られるようになったワードです(cf.「パノプティコン」をGoogleで画像検索)。
すべての収容者の個室が中央にある看守塔に面するよう円形に配置される形で設計されたパノプティコンは、収容者同士はお互いの姿を見ることもできないし、看守塔はブラインドがかかっているため、看守の姿も見えないようになっている一方、看守の側からはすべての収容者を監視することができるようになった非対称な管理システムです。
それに対して、ユーザーの側が常に企業を監視することができ、その結果をユーザー間で自由に簡単に共有できる現在のソーシャルメディアが普及した環境は、まさに逆パノプティコンだと言えます。


コントロールを手放し、寄合の場に参加する

まさにこうした逆パノプティコン時代における企業の取りうる戦略について論じているのが『グランズウェル』の共著者として知られるシャーリーン・リーの最新著書『フェイスブック時代のオープン企業戦略』です。
企業にとって現在が逆パノプティコンの状況であることを、著者は次のような言い方ではっきり示しています。

ソーシャルテクノロジーの導入にあたっては、企業はもはやコントロールできるのは自分ではないということをまず認めなければならない。それができるのは、顧客であり、社員であり、取引先なのである。

シャーリーン・リー『フェイスブック時代のオープン企業戦略』

ソーシャルメディアの普及により、顧客も、従業員も、取引先も、企業に対して「もの申す」力を得ました。企業に対して気に入らないことがあれば、彼らはソーシャルメディアを使って自分の考えを述べることができます。
一方、企業は彼らの発言を止めることはできません。企業の側がソーシャルメディアを活用できていない場合は特に...。

コントロールを手放すよう私が勧めるのは、そうすれば結果的にはいくらかコントロールを取り戻すことができるからだ。そんなバカな、と思われるかもしれない。だが相手の言葉に耳を傾け、そのパワーを尊重するのは、敵対的な行動に対抗する立ち位置につくことなのである。事態の成り行きに対して何かしらの影響力を持つにはこれしかない、と断言できる。

シャーリーン・リー『フェイスブック時代のオープン企業戦略』

「相手の言葉に耳を傾け、そのパワーを尊重するのは、敵対的な行動に対抗する立ち位置につくこと」。
逆パノプティコン的な状況から企業が逃れるための方法として、著者が提案している方法を私なりに解釈して伝えると「村の寄合方式に戻ろう」ということだと思います。「郷土も百姓も区別はなかった」村の寄合方式同様の「共同体の一員」同士で互角に向き合う立場に戻ろうということでしょう。

それは企業に積極的に寄合の場であるソーシャルメディアに参加して、顧客や従業員などの声に耳を傾けようという提案です。寄合の場であるソーシャルメディア上では、企業はかつてのように一方的に自分たちの宣伝をしたり商品を売りつけたりはできませんが、すくなくとも話し合いの場に顧客や従業員と対等な形で参加できることにより、一方的に監視され、誹謗中傷される逆パノプティコン的な状況は抜け出せます。
中央集権的な「パノプティコン」、中央が周囲の監視を受ける「逆パノプティコン」、そして、両者が互角な「村の寄合」を整理すると以下のようになります。

この図の通り、企業はコントロールをあきらめ、顧客との対話の場に出向くことで、逆にまったくコントロール不可能な逆パノプティコン的状況を回避できます。著者のいう「コントロールをあきらめよう」は、そうした積極的な提案だと思います。
顧客や市場や従業員をコントロールすることは可能であるという幻想からはやく目覚めて、一足早く寄合会場に向かった顧客や従業員たちの後をおうことが、同じ社会共同体の一員である企業のとるべき道なのではないでしょうか?


この記事に関する皆さんの意見や感想をぜひThink Social Facebookページでお聞かせください。




お問い合わせ

貴社サービスの体験価値の向上や、新しい革新的な公共サービスの立ち上げのサポートなど。
私たちにお手伝いできることはありませんか?
何かお困りのことなどございましたら、お気軽に下記リンクよりご相談ください。

≫お問い合わせフォーム



このエントリーをはてなブックマークに追加 

トラックバック(0)

トラックバックURL: http://labo.coprosystem.co.jp/cgi-bin/MtOS5/mt-tb.cgi/102