道具のデザインから、スタイルの提案へ

人びとに求められるものをどう生み出していくかを考えていく上で、商品を単体で捉えるのか、あるいは、その商品が使われるライフスタイル全体を対象として捉えるのかでは、大きな違いがあります。

個々の物をどうデザインするかという視点がある一方で、それらを組み合わせた場のしつらえをどうするかという視点がもう一方にはある。

例えば、茶の湯においては、道具や花、書を用いた茶室のしつらえがその見立てを通じて和歌や漢詩の情景を想起させながら、そこに茶の作法が結びついて一座建立の遊びの場が創造されます。

これは茶の湯という特別な場を想起せずとも、私たちの日常生活に目を向けても同様です。

料理などはその典型でしょう。
料理をする際はガスコンロならガスコンロにだけ向かい合っているということはありえず、常にコンロの上におく鍋やフライパンとも、同じ並びにあるシンクや作業台とも、はたまた、道具や調味料が入った物入れや食材の入った冷蔵庫との関係性において、料理という一連の作業が行われます。

人びとの日々の暮らしは、個別の商品と1対1で向かい合っているというよりも、複数の物や人が存在する空間に囲まれているという方がより現実に近い。
それは日常の風景を写真に撮ってみれば明らかになることで、生活の現場の写真はショールームや広告イメージのようにはならず、1つの商品のまわりに他のさまざまな商品が雑多に写りこんでいるはずです。

こうした連続的な作業を成り立たせるためには、道具主義的に個別商品のデザインをするだけでなく、作法などのソフトウェアもふくめたスタイル提案が欲しいところです。

使う人を含めてはじめてシステムと呼べる

キッチンの例で話を続けますと、いまのキッチンはシステムキッチンが主流です。
でも、その場合の「システム」とは何でしょう?

山口昌伴さんという方が書いている『台所空間学』という本に、こんな一節があります。

西欧では、調理道具を飼いならすことが躾の重要なポイントであった。銀器・銅器・錫器などの金属器を磨きあげ使いこんで代々の家宝として伝えた。調理と道具の間に密接な関係がマニュアル化されており、永年のマニュアル運用から、何がどこにあるか、ということが身に備わっているのである。空間の秩序を守るためには、行動の作法が確立されねばならなかったのである。それは茶道の修養を想起すればわかろう。一服の茶を喫するにも、修練を積んだ作法がなけば道具は叛乱を起こす。
− 山口昌伴『台所空間学』

山口さんは、同著のなかで、こうした「作法」を身につけ、それを躾によって代々伝達する文化をもった西洋でこそ、システムキッチンがシステムとして機能することを指摘しています。
一方で、そうした「作法」のないまま、個々の道具の寄せ集めとしてシステムキッチンなる家具を導入してしまった日本の近代の台所の問題を提起しています。

システムはそれを人が使ってはじめてシステムと呼ぶことができます。
人が使わなければシステムとして機能しませんし、使ってくれる場合でもその人の行動が余計に混乱するようではシステムではないでしょう。

日本の台所の話でいえば、ピカピカときれいなシステムキッチンは、煙をモクモクとさせながら七輪でサンマを焼くことにも、泥だらけの野菜を調理することにも、親戚一同を集まるお祝いの料理を複数の女性が共同で行うのにも向かず、むしろ、かつてのシステマティックに作られていた土間、かまど、いろりといった台所のシステムを崩壊させてしまっています。

Twitterが生み出したスタイル=作法

使う人がそれをどう使うかも含めてシステムであるという場合には、ハードウェアやソフトウェアといった物的な面で狭義のシステムを設計すればよいだけでなく、同時にそれを使って行う作業の作法やその作法の伝達も同時に考慮しないといけないということです。

例えば、Twitterにしても、単純に140文字のTweetができる仕組みだけではサービスとして成立せず、実際にそれを使うユーザーがつぶやくための作法が確立してきたからこそ、今のような盛り上がりを見せているといえるはずです。
この点で、Twitterというサービスのデザイン(サードパーティーの提供する様々なサービスも含めて)は、ユーザーの間で自然に作法ができあがってくるのを促すことにある程度は成功したと言えます。
特に日本では、iPhoneでTwitterを使うというスタイル=作法が確立されたのが、この盛り上がりのポイントでしょう。

ただし、一方でその作法の伝達が行われず、いまだに「何をつぶやけばいいのかわからない」と感じている人が、利用に踏み込めないケースも少なくないのも事実で、ここに課題を残しているのも確かです。

形式知化が可能な作法と、暗黙知にとどまる作法

商品やサービスが人びとに使われることを望むなら、こうした作法=スタイルが自然に生まれてくるような市場環境を設計・準備することが今後ますます必要になってくるのではないかと思います。

単純にひとつの商品の形状や機能をデザインするだけでは足りず、それが使われる際のスタイルがユーザーの間で自然と生まれてくるために必要な条件をクリアしておかなくてはいけません。

その際、考慮すべきことは、作法=スタイルには、形式知化が可能なものと、そうではなく暗黙知にとどまり続けるものがあるということでしょう。つまり、言葉や視覚的なイメージを使って意図的に伝えることができる作法=スタイルと、より体験的に実際に使ってもらうなかでユーザー自身に気づいてもらうしかない作法=スタイルがあるということです。

先のTwitterの例でいえば、@やRTの使い方は言葉で教えることができても、そもそも何がおもしろいのかは使ったことがない人にはなかなか教えられない部分があります。
ここにTwitterを楽しむための暗黙知的な作法=スタイルが含まれるはずですが、それは「とりあえず使ってみて」といい、相手が実際に使って楽しみを感じてもらうことでしか伝わらないものです。

ソーシャルメディア/ソーシャル消費の時代のデザイン

ただし、商品やサービスをデザインする場合は、この形式知化できない暗黙知的な作法=スタイルも考慮する必要がある。そこにしっかり目を向けて、自然と使い方、ノウハウがユーザーの間で生まれてくるためには、何が必要なのかということを考慮して、商品やサービスを設計するのとそうでないのとでは雲泥の差が生じるはずです。

ある意味では、そうした面にいかに目を向けた設計ができるかどうかが、このソーシャルメディアの時代、ソーシャル消費の時代のデザインの課題ではないでしょうか。

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